電波男

昨日の続き。
この本では恋愛資本主義で金を使わせるために恋愛こそが至上であると洗脳するための作品をあっち側、その対抗策としての萌えによる脳内恋愛の燃料となる作品をこっち側、と定義してるのですが恋愛物語を伝えるツールとしてみたら両者は同じ集合に属するのではないでしょうか。セカチュー*1で萌える人もいるだろうし、ゲームをやって脳内じゃない恋愛をしたくなる人もいる、みたいに。
それぞれを独立した部分集合だとするなら境界上にある(あるいは、共通要素となる)作品――例えば、漫画ならコメディ要素の少ないガチな恋愛ものをヲタ向けな雑誌(絵)で書く作家*2など――はどう評価するのでしょう。ヲタコンテンツを小説まで含めると、もっと微妙な作品がたくさん出てくるような*3
この線引きをあいまいにしたまま繰り広げられる「あっち側叩き」「こっち側賛美」には若干の違和感を感じてしまいます。
まあ、こんな問題、電波男の本筋とは全く関係ないけどね(;゜ー゜)。別にこれで評価が下がるとか、そういうことを言ってる訳じゃねぇですよ( ̄ー ̄)。

*1:映画は不可

*2:二宮ひかる小泉真理犬上すくね宇仁田ゆみ・・・これくらいかな?

*3:ガチな恋愛小説はほとんど読まないけど・・・