都会と田舎

最近考えてたことを文章にまとめておきます。えーと、俺は東京で育って大学は横浜だったけど就職してまた東京に帰ってきた。でも地方出身の友人はたくさんいるし、盆正月の親戚周りには田舎に帰ります。という人間の分析だと思って読んでください。
さて。東京と地方を考えると、多様性こそが最大の違いだと思います。東京には本当にいろんな人がいます。そして、そのいろいろな生き方を認める文化があります。外国人留学生がレジをするコンビニで、バイク便のバイトくんと会社経営者が同じペットボトル飲料を買うために並んでいる。この多様性こそが、東京と地方の一番大きな違いでしょう。これは就職してから気づいたのですが、まあ高校生なんて高校生としかつきあわないし、大人はみんな「大人」という人種としか認識しないから仕方ないよね。
もう少し例をあげようかな。
たとえば「同性愛は気持ち悪い」という意見、田舎だと公言したはばからない人がいるらしいけど、東京ではたとえ酒の席でもそういうことは言わないほうがいい。とたいていの人は知っている。隣で飲んでる女の子の集団が腐ってるかもしれないし、料理を運んでくる店員さんが(ry 新宿という東京の一地域ではもっと顕著だろう。この街では、同性愛者すら「少数派」ではあっても「異端者」ではない。
結婚に関する意識もぜんぜん違う。東京では、結婚するかしないかは本人が決めればいいことだが、田舎では「結婚するべき」という価値観が強く残っている。20台後半の独身女性が「行き遅れ」といわれたり、「男やもめ」なんて言葉があったり、どこの未開地域の話?と思ってしまうが、そういう世界はまだ確かに残っている。らしい。
この街には、個人の行き方に圧倒的な自由があります。この自由が、東京が人をひきつけてやまない最大の理由でしょう。
こういう言い方もできます。地方は「善」を共有する社会であり、東京は「悪」を共有する社会である。
「〜しなければならない」という規範が地方では強く、そしてそれを押し付けるおせっかいな他者が多数存在している社会である。男は男らしく、女は女らしく、学生は学生らしく。その規範に沿って生きることが出来たら生きやすい世界だろう。同時に、そういう生き方が出来ない人はコミュニティから排除される。
東京の唯一のルールは「自分のケツは自分でふくこと」だと思う。上品な言葉で言えば「自分の人生に自分で責任を持つ」「他人に迷惑をかけない」ということだ。この街では、「〜してはいけない」だけ定義され、「善」は個人にゆだねられる。誰もがお互いに、好意的なシカトをする世界だともいえる。マイノリティにやさしい世界ともいえる。その一方で、自分の所属するコミュニティを積極的に探さないと、すぐに孤立してしまう。都会は孤独、なんていう使い古された意見はここからくるのでしょう。
この街は、「自分であること」を強く求める。大学生だから、20台独身男性だから、女性だから、といった理由で「こういう生活スタイルをする」という強制がない。「なんで勉強するの?」「なんで働くの?」「なんで結婚するの?」といった理由をいちいち問われる世界でもある。
自分でコミュニティを探せる人、そしてコミュニティを探せなくても「俺は俺だ」と言い切れる人が、この街で心地よく生きていけるのだろう。
だけどね。「善」を共有する社会って、危険ですらあると思うんですよ。古くは中世の魔女狩りから、ナチにいたるまで、善を共有しない=異端者を虐殺した歴史は枚挙にいとまがないです。それは極端な例だとしても、「善」の共有と「not善の排除」はそれだけで嫌悪感を感じてしまいます。この点だけでも、俺は「悪」を共有する、相互にシカトする社会を支持します。
きっと俺は東京以外では生きていけないんだろうな*1

*1:もっと自由な都市なら可。香港とか